• 第1弾 加藤いつこ
  • 第2弾 三遊亭歌之介
  • 第3弾 星田英利
  • 第4弾 小市慢太郎
  • 第5弾 柳 美里

vol.5

芥川賞作家にして劇作家、世に話題作を放ち続ける柳美里さんも、中学時代にコートを駆けたソフトテニスOGのひとりだ。白く、やわらかいボールとその周辺の光景には、今も特別な思いがある。
柳美里さん写真

柳 美里

戯曲「グリーンベンチ」は、母校の
テニスコートにあったベンチがモチーフ。ソフトテニスのボールを打つ独特のあの音には、学生時代の甘ずっぱい思い出が詰まっています。

3歳で決まった入部

 横浜・元町の海を臨む丘に「乙女坂」と呼ばれる名所がある。柳美里さんとソフトテニスの出会いは、母親に背負われてこの坂を上った3歳のころにまでさかのぼる。
 「本当の名前は地蔵坂って言うんですけど。丘の上は、フェリス・横浜雙葉・横浜共立という『神奈川女子御三家』と呼ばれるミッション系女子校の密集地帯で、朝は各校の制服で坂道が埋め尽くされるから、乙女坂」
 坂の上にある女子校のテニスコートは通りに面していて、女子部員のボールを打つ音が響く。母親はその脇を通るたび、「美里も大きくなったらここでテニスをするのよ」と言い聞かせた。
 「私が通っていたのは、歴史の古さでは日本で五指に入る女子校でした。学校の正面にハードコート2面が並んでいて、部員がテニスをする姿が生垣越しに見えるんです。コートの一角にはグリーンベンチと呼ばれるベンチが、明治4年の創立以来、ずっと置かれている。グリーンベンチは、学校の象徴のような存在でした。私の母はそのテニスコートに強い思い入れをいだいていて、学校とソフトテニスがセットで、母が私に託す夢になっていた」
 母親の夢を叶えるべく、小学6年から進学塾に通って合格した中高一貫教育の女子校、部員100人がひしめくコートで、ラケットを握ることになった。
 「合格が決まって、母は涙を流したり小躍りしたりして大喜びしました。ラケットももう、好きなの買いなさい!みたいな大盤振る舞い。私も気が大きくなって、ヨネックスの、上級者用の2万円以上するラケットを選びました」

高校生の先輩に憧れた

 中1から高2の部員のうち、コートの中に立てるのは主に高校生たち。1、2年生は、暑い日も寒い日もコートを取り囲むように並び、先輩たちのスイングに合わせて独特の掛け声をかけた。
 「上級生はスコート姿。中学1、2年生はえんじ色のジャージでボール拾い。素振りも延々とやりました」
 「当時は80年代アイドル全盛の時代で、高校の先輩たちはみんなサイドをゆるくカールさせた聖子ちゃんカット。その髪とスコートが、スイングする度にフワッ、ヒラッと揺れる――憧れましたね」
 「ラインの外にボールが飛んでくると、1、2年生どうし競うようにダッシュです。コートの縁に木や花が植えられていて、その土の部分にボールが入ってはいけない決まりだったんです」
 「ソフトテニスって、独特の間がありますよね。ボールに緩急がある。バウンドしてすぐに打つこともあれば、かなり引きつけて、(一拍)ッポーンと打つこともある。私たちジャージ組は、先輩が打つそのリズムに合わせて『ソレ!』『……ソーレ』って声を掛けて」
 「早朝、まだ暗いうちに家を出て、電車に乗って、乙女坂を上って、先輩たちが登校する前にコート整備を済ませるのが、下級生の仕事でした」
 練習は、教会に行かなければならない日曜以外は毎日あった。夏休みも休まず活動する部だった。雨が降ると体育館のスロープを走った。

 「部活の花形といえばソフトテニス、バスケ、バレーボール。校則はとても厳しくて、コート、レインコート、靴下まで学校で指定されたもの以外は禁止でした。ただテニス部は、学校で一番目立つ、外に面した場所(コート)が舞台で、かわいいテニスウエアーを着て――ある意味、私服ですよね――後輩たちの熱い視線を全身に浴びてプレーする!テニス部のコートは、学校でいちばん自由度が高い場所だったんです」

散る桜と「グリーンベンチ」を背に

 柳さんは後衛だ。しかし、ペアとの思い出をはじめ、試合の記憶はそれほど残っていない。憧れのスコート組に上がる前に、学校を離れることになったからだ。
 「高校1年の年に、辞めてしまったので。退学届を出して、学校を出ていくときの光景は今でもはっきり覚えていますね。グリーンベンチが右手にあって、左にコート。コートにも校庭にも生徒はいなかった。桜が散る季節でした。横浜市の指定有形文化財の洋館である本校舎3階の音楽室から、讃美歌の歌声が響いていました」
 15歳で、慣れ親しんだベンチを背にして挑んだのが、演劇の世界だった。翌年、ミュージカル劇団『東京キッドブラザース』に役者として入団。戯曲、小説と、現在の道に至る大きな決断となる。
 「ソフトテニス部で上下関係が厳しい体育会系の人間関係に慣れていたので、劇団内の先輩後輩の関係に抵抗をおぼえることはありませんでしたね」
 1994年に書いた戯曲、「Green Bench(グリーンベンチ)」は、ソフトテニスをモチーフにしている。役者は全編、ラケットを手に、ラリーをしながらセリフを飛び交わせる。母と娘の葛藤を描いた物語には、自分と母親との関係が投影されている。  「母の強い希望で入った学校だったんですが、やはり人は、他人の夢の中では生きられない。この舞台は、本
当は実際にボールを打ちながらやりたかったんです。だけど、もしボールが客席に行ってしまったら、とかいろいろ考えて断念。スイングに合わせて、ソフトテニスのボールの音をかぶせました。あのパコーン、パコーンという音、独特ですよね」

すべてはボールの音に詰まっている

 今でも、柳さんの耳にははっきりとボールの音が残っている。
「息子が私が高校を退学した15歳になって、自分の15歳の時を思い返すようになりました。もうちょっとがんばって学校に残っていればよかったな、と悔やむことがあるんですよ。夢を見るんです、ソフトテニスの夢。今までインタビューを受けても聞かれたことはなかったし、ソフトテニスについては自分でも封印していたようなところがあるんですが、最近は、少しずつ封がはがれてきている感じですね。やはり、途中で辞めたものって念が残るじゃないですか。私の場合はボールの音が夢に出てくる。『案山子とラケット』の予告編も、ボールの音から始まりますよね。そして、風、水たまり、湧き上がる雲の映像……。ボールの音が呼び水となって、懐かしい風景がよみがえる。ソフトテニスほど自然と響き合うスポーツも珍しい。まあ、あれほど風の影響を受ける競技もないでしょうからね」
 球拾いしながら見た真夏の青空、汗だらけの顔を吹き抜けていった風の感触、声を合わせた部員たちの掛け声、すべてはボールの音とともによみがえってくるという。
 「人が死ぬときって、走馬灯のように思い出が浮かぶって言いますよね。私は、きっとグリーンベンチやテニスボールやコートに舞い散る桜を見ると思う。ひとことで言うと、青春ですね。振り返ってみないと、見えないもの。私は、青春の真っ盛りでいち抜けて、振り返って懐かしむ暇もなく、30年間書きつづけてきました。ボールの音には、青春時代のすべてが詰まっています」
 副部長のツカダ先輩が好きだった!と女子校の中学生らしい思い出も披露した柳さん。実はいま、「高卒認定試験を受け、大学に行く」という目標を持っている。
 「そのときは、入りたいな、ソフトテニス部。こんな年齢の新入生が来たら、みんなびっくりしますかね」
 今度は好きなウエアーを選んで、参りましょうか。

Text by Hiroki Narumi
Photo by Hideo Ishibashi
柳 美里さん
柳 美里Yu Miri
ゆう・みり/1968年6月22日生まれ。横浜共立学園高校中退後、劇団「東京キッドブラザース」に入団。役者を経て、87年に演劇ユニット「青春五月党」を結成。88年に劇作家としてデビュー、93年に「魚の祭」で第37回岸田國士戯曲賞を最年少で受賞。94年発表の「Green Bench」は、戯曲として初めて三島由紀夫賞候補に。96年「フルハウス」で第18回野間文芸新人賞、第24回泉鏡花文学賞をダブル受賞。97年、「家族シネマ」で第116回芥川賞を受賞。99年、「ゴールドラッシュ」で第3回木山捷平文学賞を受賞。2001年、「命」で第7回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞を受賞。南相馬ひばりエフエム(サイマルラジオにて全国で受信可能)で「柳美里のふたりとひとり」をオンエア中。3月27日にエッセイ集「貧乏の神様 芥川賞作家困窮生活記」(双葉社)を出版。オフィシャルサイト「La Valse de Miri」http://yu-miri.jp/